loader image

知っていると 理解している

思考意識は「知の意識」と「理解の意識」に分けることができる。
この知は「知識」から来る言葉で、まさに知っている状態にある人間の思考意識を指している。
たとえば人間は宗教的・哲学的な概念について知っている。
それは一般知識といわれるものだけど、じゃあ知識を身につけたとして、本当の意味で理解しているといえるだろうか?
そこで重要になってくるのが、スピリチュアルな思考意識だ。
スピリチュアルな思考意識とは、「理解」している状態を指す。
宗教的・哲学的な概念を知識として知るばかりでなく、それを理解しているということだ。
理解とは悟りそのものを指す。
悟ったマインドは、人間の思考意識とスピリチュアルな思考意識の両方を兼ね備えている。
知と理解がひとつの思考意識を形成しているんだ。
悟ったマインドは、分け隔てすることなく、本源と同じようにすべてをひとつにつなぐ。
ぼくらの旅路では、知識と理解を分けて考えることが重要だ。
理解はたいてい、自分のしてきた体験や信じてきたものを振り返ったときに得られる。
悟りへの道でスピリチュアルな成長を遂げるには、何を信じるかを自分で決めることが肝要になる。
自分が生まれ育った文化や宗教を盲目的に信じ、教えられたことをすべて鵜呑みにする人がいるが、だからといってその人が自分の信じていることを理解しているとは限らない。
だからこそ、何を真実として受け入れるかを自分で決めるべきだし、今まで自分がしてきた体験を理解する必要があるんだ。
そうすれば、何を信じればいいか自分で選択できる。
ただし、あくまでも自分が選択するのであって、他の誰かが決めることではない。
ぼくらは自由に考えることもできれば、他の誰かが決めたことを選ぶこともできる。
「つまずいたとき」に他人を責めることもできれば、責任をもって「立ち上がり」、人生という忌まわしい輪に再び入る、あるいは学ぶべきことを学んだあとに新たな螺旋に入ることもできる
その体験を通じて自分の信念を見つめ、理解するという選択もあるんだ。
そうして自分の信念や自分自身の理解に至れば、それは単なる信仰ではなく、万人のなかにある神との純粋なつながりを自覚する状態へと変わっていくことになる。
あらゆる思考、感覚、言葉、行動、瞬間が神 いったん意識の統合が起きて、自分の体験を理解できるようになれば、肉体にいながらにして神との一体感を体験するだろう。
肉体もまた、神の目から見た別個の視点に過ぎない。
神の分身もまた神なんだ。
天の波動であろうと、地球の波動であろうと、神であることに変わりはない。
個々の分身は、神への個々の理解を表しているんだ。
神の恩寵あるいは神聖なエネルギーはいつだってそこにある。
神はぼくらの生涯を通じて毎瞬、そこに存在している。
人間はスピリチュアルな道を歩みながら、神がつねにそばにいたことを思い出す。
それを呼び覚ましたいなら、スピリチュアルな旅を一般的理解に変えていくことだ。
簡単にいえば、悟りを得るためにすべてを知る必要はないということだ。
悟りとは神意識が目覚めることを言う。
神はこれまでさまざまな形で信仰され、いろいろな顔や名前で知られてきたが、どれもが神であることには変わりがない。
キリスト教やイスラムの神、ヒンズー教の神々、エジプトやギリシャの神々、それに仏陀だって同じひとつの神だ。
特定の宗教や文化圏の信仰が正しくて、他はすべて間違っているなんて、ばかげた話だ。
こういった思考は人間の思考意識に由来している。そろそろスピリチュアルな意識を思考パターンに取り入れるべきだ。
様々な体験を続けていますが、自分のサイクルを見ていると
体験する 時期 と 理解を深める 時期 とで 動いているなぁと感じています。
体験する時期は もう、振り返る暇もなく なんなの?????という状態です(笑)
それらを通過してから、あぁあれは こういうことだったんだねぇという 霊的答え合わせの時期が来ます(笑)
その時点、そこまでの体験で理解できたことを 自分のマインドに落とし込んでいく
マインドの降伏する時間でもあります
そうして、どんどん 神性さ 愛が 広がっていきます
そして たんに 知識として知ること と  叡智として 知ることの違いを味わいます
最近はラントーが助けてくれて、真の叡智とは ということを 体感しています。
理解してから、叡智になるまで は 再現性が 鍵なのかなと感じています。
思えば、小さなころから予習、実践、復習、復習(人に教える)という生き方をしてきました(笑)
学校の授業 を想定すると
予習します
その後の授業は ある意味実践であり復習です
そして、それを人に教えられるように さらに復習して 自分に落とし込んでいく
そういう学習法が 誰に教えられたわけではなく 身についていました💦
23046700.jpg
そして、どうしてこんなに学ぶのが好きなのかな?と思ったら
探究心に尽きるのですよね
この探求心は 誰もがハートに備えている 成長のエネルギーです
その探究心が 満足できるように すること
自分のハートを 楽しませる わくわくさせること
そこで 知識が叡智に変わっていくこと がアセンションでもあるのだなぁと理解できました。
霊的な 学びにおいては 予習がなかなか難しい(笑)
今に生きる というのが 霊的学びでもあるのと
さらに 固定観念を捨てる という レッスンもあるので、予習が役立たないこともしばしば(笑)
それでも、今まで知っていた知識があるからこそ、経験でき、理解でき、叡智に昇華させられる
その中で知っていた知識のアップデートが常に起こり、それらも非常に流動的に変化する
風の時代、セントジャーメインの時代の 霊的学びは フレキシブル かつ 今! という感覚です(笑)
それらは、すべて 個々にアレンジメントされていて 同じ学びのようで オリジナリティあふれるもの
今までの これをやっていけば アセンションするよ とか これをやっていたら 悟りの道があるよとか
チャクラが開いたから アセンションできるよ とか そういう 今まで生まれたすべての固定観念からの解放でもあるようです。
この気づきに心からの愛と感謝を込めて・・・・
menu