ある方式から別の方式に乗り換えるときに私たちが見逃しているのは、自由はどこかひとつの場所にあるわけではないということだが、それは単純に、自由は本質的に何かから除外されたり何かを除外したりするものではありえないからだ。自分を待ち受けているつぎの「スピリチュアルな」高揚感に向けて行進しているときに、私たちが理解し損ねているように思えるのは、自分の探している宝物はそうやって向かおうとしている先にではなく、今まさに歩いているその足どりの単純な性質のなかにあるということだ。今よりも良い状況を見つけようとして時間のなかで突進しているとき、毎瞬姿を現している「存在すること」という花を、私たちは踏みつけている。 目的に対する私たちの執着は、自分に対して何かを証明したいという必要から生じているのではないかと思う。だが生は単純に生であって、何かを証明しようとしているわけではまったくない。今年の春が去年の春に勝とうとすることはないだろうし、トネリコの木が樫の木になろうとすることもない。非凡さや華々しさに惹かれる気持ちを見かけの上で手放すことによって、平凡さの内に存在している純粋な驚異が姿を現すかもしれない。 というのも、生はそれ自体が目的であり、存在する理由を必要としないからだ。それが生の美しさだ。
ネタがないよと伝えてから一気にAmazon Kindleに導かれ読んだ本です。
私自身が 何かがない と思い込み そのために努力することは 自由から離れる行為です。
今すべてが満たされていて、ゆだねきることを学んでいるのだと忘れさせる瞬間でもあります。
そうしていったん 源から切り離されると 一気に不安が押し寄せてきます。
そこから 他人の評価が気になって自己価値が下がります。
そして 起きてもいない現実を創り出そうと動いてしまいます。
この動きを止めるエッセンスが 2時間で一気に降りてきました(笑)
大天使ガブリエルかなぁ・・・という感じですね(笑)
求めたら入ってくる量が今までの3倍以上になったのを実感しています。
これって、人の3倍 理解しているということにもなります。
そういう自分の価値、情報処理能力をしっかり認め切ろうと思います(笑)
そうすることで「ない」という思い込みが一気に手放されました。
必要なものはいつでも手元にあり、求めれば得られるのです。
ないと思い込む自分を手放すことが必要だったのですね。
今日の学びに心からの愛と感謝を込めて・・・・