ダキニ(ダキニ天)白狐に乗る女性として描かれます。空海の真言密教が稲荷信仰と結びついた影響で、インド密教のダーキニーと結びついたのです。ダーキニーは、性的欲望を神聖な力「シャクティ」としたタントラ仏教の女神で、性愛の神とされます。端的にいえばセックスを改善する神様ですね。トヨカワダキニシンテンは祭るのが非常に難しいとされ、一度祭ると自分の命と引きかえに最後までその信仰を持たなければならず、もしその約束を破ると、途端に没落し、災いがもたらされると考えられました。
稲荷神社や荼枳尼天がお祀りしてあるお寺に行きお願い事をし、叶った後お礼参りに行かなかったり、定期的にお参りに行かない事で波動が乱れ、感情の起伏が激しくなったり、浮き沈みの多い人生になってしまう事を俗に稲荷の祟りと呼びますが、このまるで祟りのような現象に深く関わっているのが狐の自然霊です。豊受大神や宇賀御魂命自体は見返りを求められない神様なのですが、神様の眷属(お使い)として狐の自然霊がおり、その狐の自然霊が見返り(お賽銭や供え物、感謝のエネルギーなど)を求められる場合があります。また空海がインドより勧請した荼枳尼天は、狐の自然霊と一体化しておりますので、こちらも見返りを求められるケースが多いようです。芸能人のような人気商売の方や経営者・事業者の方々も、熱心に信仰されているようです。人間の二大欲求「性と金」に対応する、ものすごくわかりやすい女神ですが、安易に手を出すと痛い目を見る可能性があるわけですね。
荼枳尼天(だきにてん)は宇賀御魂命と同じく物理的次元のものを動かす霊力が非常に高い神ですが、宇賀御魂命の眷属である狐の自然霊よりもさらにあつい信仰心を持ち定期的に参拝をする必要があります。
狐の自然霊や荼枳尼天は、きちんと敬い、定期的にお参りに行き、感謝の気持ちを持ち続けている限り、先ほどもお伝えしましたがこの世の物理的次元のものを動かす力は眼を見張るものがございますので、もし狐の自然霊の力をお借りしてでもどうしても叶えたい物理的なお願い事がある場合などは、今回僕がお伝えしました狐の自然霊や荼枳尼天の特徴を十分に踏まえました上で、ご自身のご判断のもと、ご参拝、ご祈願なさるのも一つの手段だとは思います。
完全にもうお願い事や参拝はしなくてもいいなと判断できたら、やはり最後にきちんとお礼参りをしに行かれ、そして神様に対して
「今はもうお願い事はございませんので、ただいまをもちまして願解き(がんほどき)をさせていただきます。本当に今までありがとうございました。神様のお幸せを心よりお祈りいたします。」
とお伝えししっかりとお賽銭やお酒などでお礼をし、願解き(がんほどき)をしてお参りに行くのを終了するとよいですね。
願解きは神様に対する礼儀であり、また願解きをすることで断捨離と同じく自分の潜在意識もスッキリ片付いて新しくやってくるエネルギーやインスピレーションたちにより集中しやすくなります。
稲荷
土地、家、産業等に関する守神で、実名を宇迦之御魂(うかのみたま)、倉稲魂等といい、伊勢の外宮の祭神(豊受大神)でもある。この稲荷神の守護をするために、その眷属として狐の霊が働いている。このために狐霊と稲荷神を混同させる結果となってしまった。一方、わが国では、歴史的に狐霊が活躍できるような多くの機会があり、それによって、神であるかのような活躍を続けてきたという事実も否定することはできない。
宇賀御魂命(ウカノミタマ)全国の稲荷神社で祀られる神さま。「お稲荷さん」と呼ばれ親しまれています。名前の宇迦は食(うけ)と同じ意味で食物の事をさし、八百万の神の中で最も有名な食物神です。「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として広く信仰されています。
ウカノミタマ神は、稲の精霊を神格化した神とされています。名前の宇迦は食(うけ)と同じ意味で食物の事をさし、基本的な性格は五穀・食物を司る神です。
また稲荷神として「お稲荷さん」と呼ばれ親しまれています。
『古事記』ではスサノオ尊とオオイチヒメ命の子とされていますが、どういう神かとまでは記されていません。『日本書紀』ではイザナギ命とイザナミ命が大八島をつくった後、飢えを感じて宇迦之御魂神を生んだとあり、食物との関係が示されています。
ウカノミタマ神は八百万の神の中でも代表的な食物神とされています。
食物の主役は穀物、そのなかでも「稲」はその中心であり、主食を保証する神の名前が倉稲魂(ウカノミタマ)と表記されるのもそういう理由からです。
宇迦之御魂神がなぜ稲荷神なの?と疑問が生まれますが、どちらも稲霊(穀霊)、食物神というところが共通しています。ただ、稲荷神には本来殖産興業の守護神としての性格があったと考えられます。それが今日の稲荷神の霊験に大きく影響しています。
稲荷信仰は奈良時代に発生しました。伏見稲荷大社の社伝には「和銅四年(711)に稲荷山三ヶ峰に稲荷神が鎮座した」とあり、その場所は現在の伏見稲荷大社がある場所です。
稲荷信仰のルーツは当時その一帯に住んでいた豪族の秦氏で、自分たちの氏神として、また穀霊神、農耕神として祀っていたそうです。
稲荷は「稲生る」が転訛したという説もあり、その信仰の核は「百穀の首座にある稲霊」にほかなりません。それはウカノミタマ神の性格とも一致します。
秦氏の勢力拡大にともない、稲荷信仰もしだいに拡大していきます。この稲荷神とウカノミタマ神はどちらも稲魂(穀霊)、食物神というところが共通していることから同一視され、結びついたと考えられています。
後に稲荷神は神仏習合、さまざまな民間信仰を巻き込みながら、日本の民族宗教のなかにおける代表的な霊威神として確立します。
飯綱使い
管狐(くだぎつね)を使って術を行うこと、または術を使う人を指す。飯綱修験は、戸隠修験から天福元年(1233年)に水内郡荻野城主伊藤豊前守忠縄(千日豊前)を大先達として修験道場が創始されたことに始まり、この修験に京都愛宕の呪術者の一群が修するインド・ダキニ(茶吉尼)天の法を加味した誦呪(愛宕<あたご>の法)を加え、狐を使う外術が生まれた。管狐はイタチより小さく、頭がリスに似て、全体に猫の子のようでもある。著名な飯綱使いとして、京管領・細川右京太夫政元(応仁の乱にかかわった細川勝元の長子)が、愛宕の法の受法者として知られ、また、戦国時代の関白内大臣従一位九条植通公も同呪術を修し、自ら飯綱の法を習ったという。
飯綱飯綱は、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)など宗教的職能者が持っていて、通力を具え、やはり占術などに使用される。しかし、こうした予言などの善なる活動だけでなく、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている。飯綱はまた、飯縄大権現の使いと解釈されることもある。よって術者(飯綱使い)は飯縄権現を信仰する行者の場合もあるが、必ずしもそうとはかぎらない飯綱使いが使役する狐の取得方法については、術者が精進潔斎し単独で山に行き、子を孕んだ母狐を訪ねて自分の養子とすると説き、出産まで餌などの世話をすることで、呼べばいつでも来る狐のしもべ得られるという旨が、例えば『老媼茶話』中(「飯縄の法」の節)に記載されている管狐
管狐(くだぎつね)とは、日本の伝承上における憑き物の一種である。長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある。関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキの勢力圏だからといわれる。管(竹筒)に収まるほどの小型の生き物の様だが、普通はその使い手にしか姿は見えない。使い手は、クダ狐の力で他人の過去を言い当てたり、未来を予言出来たりの占術が使えるとも、また、他人に災いをまねかせる呪術を使えるともされた。伝承地方では、家が栄えると、それはクダ憑きの家だからと不名誉な噂を立てられることがあった。娘が嫁ぐ度、75匹の眷属を伴っていくという言い伝えがクダや同系の妖怪について語られる。九尾の狐九尾狐(『山海経』より)
九尾の狐(きゅうびのきつね)または九尾狐(きゅうびこ)・九尾狐狸(きゅうびこり)[注 1]は、中国に伝わる伝説上の生物。9本の尾をもつキツネの霊獣または妖怪である。中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが泰平の世や明君のいる代を示す瑞獣とされる。『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であるとされる。また、物語のなかでは殷の妲己や日本の玉藻前のように美女に変化して人々の世を惑わす悪しき存在の正体であるともされ、よく知られている。中国での九尾の狐についての記述の古い例には、『山海経』(南山経)での九尾狐が挙げられる。「(青丘山には)獣がいる。外形は狐のようで、尾は九本。鳴き声は嬰児のようで、よく人を食う。(この獣を)食べた者は蠱毒(あるいは邪気)を退ける」という記述がある。『山海経』では他に海外東経・大荒東経に名称の記述がある。人を食べるという箇所があるが、霊験として辟邪の要素を付与されており、瑞獣としてあつかわれていることが見てとれる。『白虎通』では、時の皇帝の徳が良いと世の中に現われる瑞獣の一つとして記されているほか、「九」という数字は子孫繁栄を示しているともあり、陽数を持った瑞兆を示す霊獣であるとしている。武王を主役にした物語『武王軍談』、あるいは『封神演義』などの小説、その源流となった元の時代の『武王伐紂平話』や明の時代の『春秋列国志伝』などでは、殷王朝を傾けたとされる美女・妲己の正体が九尾の狐(九尾狐、九尾狐狸)であるとされている。これらの物語あるいはそれを下地とした書物での記述が、後の時代には漢文圏で広く知られるようになった。清の光緒年間に書かれた酔月山人『狐狸縁全伝』(1888年)にもこれを踏まえた九尾狐が登場し、千年修行すると尾が一本増え、一万年修行をすると黒かった毛が白くなるとされている。日本でも九尾狐は瑞獣とされていた。『延喜式』の治部省式祥瑞条には「九尾狐」の記載があり「神獣なり、その形赤色、或いはいわく白色、音嬰児の如し」とある。
DX(デジタルトランスフォーメーション)とは?DXとは、進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革することを指します。「DX(デジタルトランスフォーメーション)」は、元々、2004年にスウェーデンのウメオ大学のエリック・ストルターマン教授によって提唱された概念で、その内容は「進化し続けるテクノロジーが人々の生活を豊かにしていく」というものでした。「Digital Transformation」は直訳すると「デジタル変換」という言葉になりますが、“変換”というよりも“変革”という言葉が鍵になります。ただし、DXが及ぼすのは単なる「変革」ではなく、デジタル技術による破壊的な変革を意味する「デジタル・ディスラプション」。すなわち、既存の価値観や枠組みを根底から覆すような革新的なイノベーションをもたらすものです。